Twilight

白日の喧噪が薄らぎ万物がその形姿を背景に溶け込ませる日没時、 今日を振り返り、明日に思いを馳せる。
窓に明かりが灯り、会話が始まる。
明日も良い一日でありますように.......。
Stone cutter (鉱物研磨職人) Aquilax O

勾玉 - 主観的なカタチ

      2016/07/14

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記憶の底から掘り出したカタチ

 マガタマと断りつつも、私の内実で土台を成しているのはマガタマとは異なる何らかの原風景だと思う。
以前書いたことだが、この形はかつて5,500年という長きにわたって作り続けられたという歴史がある。しかし私の場合、連綿と作り続けられた一つの文化、「勾玉文化」の履歴を辿り、レプリカを再生しているわけではないのだ。
そもそも勾玉に込められた意味=コードをプレパラートに乗せてレンズを覗き込んだところで、その解読など出来るわけもない。
勾玉に関する諸説を連ね俄か学者のふりをして帰納的推論を試みるというのも怪しく無理がありすぎる。推論で組み立てられた形には必然性から生まれた確かさ、作り手から見れば自我という存在性を主張することなどできるわけがない。そこにあるものは空疎な虚構ということになる。

たしかに「勾玉とは何か?」。一時期、そんなテーマに惚れ込んで夢中になっていた自分があった。しかし謎解きと戯れていたのでは、制作は愚か原石の形態は微塵たりとも変化しようがないのだ。この形と自己との関係、その原点に還るべき時だと感じたのは最近のことである。

 子供の頃、私は病的なまでの昆虫少年だった。ここでその病的な日常を書くにはあまりにも話題が多く、話が長くなってしまうため割愛するが、横山光夫著の『原色日本蝶類図鑑I , II』をこの世で最も高貴な宝物とし、ほぼ全文を暗唱するまで読みふけったものだ。それぞれの蝶に散りばめられた一言一句にため息を漏らし感嘆しながら、あたかも百人一首さながら、何度も何度も心の中で暗唱した。例えばギフチョウの項には次のような一文があった。
----羽化した幼蝶は
「無風晴天の日の午前中」
ひらひらと舞い散る山桜の花びらのようにカンアオイの叢雲から舞い踊り空中を飛び回る。
「午後は高く、しかも速く飛びたつ習性があるので捕え難い」。
「」内が記憶の底にある原文、それ以外はギフチョウに恋した少年の夢見る思いである。「午後は高く」とは昆虫図鑑では飛翔する高度を意味している。
今思えば横山光夫氏の文体からは、どこか平家物語にも通じる儚くも簡潔な美しい香を感じるのだが。

かつての昆虫少年は現在も奥本大三郎氏の『虫の宇宙誌』やら『完訳ファーブル昆虫記』、『奥本昆虫記』など、この季節、仕事を忘れ、野原や公園の木陰で再読したい誘惑に駆られてる。もっとも奥本大三郎氏を敬愛するにはもう一つの訳がある。氏の貴族的な容貌、私のような野良犬には決して備わることのない静かな情熱が醸し出す確かな生き方が感じ取れるといったら苦笑されるに違いない。

 ここで昆虫の話を挟んだのには理由があってのことです。
もうお気づきだと思いますが、私のカット研磨には昆虫のカタチがきっと織り込まれている。特に幼虫、そうカブトムシ、セミの幼虫を思い浮かべていただくと分かりやすいのではないかと。
先ほど「病的なまでの昆虫少年」と書いた核心がそこにある訳です。地上に這い出たり舞い出たりする前の幼虫。わずか数日間を生きるために数年間を地中で過ごす幼虫に私は命の不思議さを見ていた。それが私にとって命を考える上での一つの原風景だと思い至る訳です。
 原石を前にしてレプリカを取り出そうとすれば手は止まってしまう。しかし原石の中から自己の原風景、言い換えれば自我を取り出そうと考えれば、磨き出す手や指の動きはたちどころに水を得た魚のようにカタチを追い求める。私に興味があるのはそのような無理のない総括的な作業、時間の流れということになります。
「勾玉」と表記してはいても、私の場合一般論や専門的な研究成果とは大凡かけ離れた、きわめて個人的なカタチ、ということになるわけです。

待つことが仕事ということも

 今回の素材はドミニカの最上質な琥珀。内包物やクラックなど、そぎ落としたのは例に漏れず数年前。
いつも目の届くところに並んでいたその塊。いつかカタチにしたい、というより待っていればきっと手を下す時がくる。
待つことも仕事。石と私との関係はそんなケースが多い。
一気呵成、あるいはただひたすら待つ、相反する関わり合いの中で一つのカタチが生まれるならそれで良い、そう考えてます。

最後に一言。このドミニカンアンバー26.80カラット、孔直径は4.44mmです。
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 - 勾玉